めろんぱ最終回

読まれんかった。
結局の所、ラジオ番組はリスナーと投稿人のものでして。そのどちらでもない僕は、最後の最後で何やら違和感と言いますか、感動に完全には乗れない何かを感じてしまいました。それでも、春ツアーラストよりはよっぽど感動したけどね。
どうせ受験生といいつつも勉強しなかったんだから、気にせずハガキで投稿すりゃよかった。特にコーナーが「メロ電」になる前までに。ハガキ。ハガキ。一度も書いたことの無いハガキを。
番組が終了する時には様々な後悔をするのです。後悔で人間は良くなったり悪くなったりするのです。僕は、良くなりたいのです。
あーあ、あーあ、受験が終わって投稿する所が無い。カラプレに何を送れと?・・・いや、送るか。送って送って送って気持ち悪がってもらおう。思い入れで現状を打破するのです。


変な言い方をすると、めろんぱ終了によって僕にとってのメロン記念日は四分の一ぐらい解散しました。僕はこの番組で本名読まれたことでメロンファンになった面が極めて強いので、その原点が消えてしまうと、もはやメロン記念日メロン記念日じゃないんです。放送は全然聴いてなかったけど、それでも、ヘソみたいなもんで、常に僕の中で意識されていたので。
あー、でもこの「めろんぱ=ヘソ論理」だと、同時にめろんぱ終了なんて全く大したことじゃないとも言えるな。めろんぱが終了しようと、ヘソはあくまでもヘソであり続け、その原点は消えることはないのかもしれない。不在の存在感と言いますか。確かにそこに有った物が今は無い、その事実だけで維持される影響力。
僕は去年の夏頃からメロン記念日を好きになった新参者なので、好きになった頃からずっと彼女達の解散を思い描き続けています。どこまでも登っていく道を夢見ることなんてできないのです。その僕を支えていた番組の終了は、新たなるメロン記念日の到来を告げているのかもしれない。
・・・・・・頭を冷やす為に寝ます。


メロン記念日の皆さん、そしてスタッフの皆さん、楽しい放送を本当にどうもありがとうございました。
僕個人としては受験が終わって、やっとラジオをじっくり聴けると思った矢先の終了でとても悲しいですが、最終回はスタッフさんとメロンの四人の気持ちの入った最高の放送だったので、とても嬉しかったです。
一度終わってしまったラジオ番組は、ほとんど復活する事はありませんが、それでも夢見てしまいます。メロン記念日が再び「めろんぱ」を放送できる日を。


ありがとうございました。そして、さようなら。